オぷストについて

オぷストはどんなお店なのか。それをお伝えするためには、店長である私、小岩井竜二の個人的な物語を話すことが一番の説明になるかと思いここに記そうと思います。

パン職人への道
食に携わりたいという漠然とした想いをもっていた高校時代。なにかこだわりがあるわけでもなく、当時はラーメン人気が絶頂期だったので、アルバイトしていたラーメン屋で卒業後も働こうと思っていました。
でも、大学へ行かせたかった親の勧めもあり、とりあえず二年制の調理師学校へ進学することにしました。と言っても結局行ったのは一年制のコース。入学直前になって「やっぱり二年なんていってられない」と思い、コースを切り替えたのです。早く親元を離れて自立したかったという動機がありました。
一年制コースの生徒は入学してすぐに就職活動を始めなければならないのですが、どうも乗り気がしない。おまけに、魚介が苦手なため魚を捌くときの生臭い匂いが堪えがたく、料理人として働くことは無理だと途中で気づきました。結局、卒業間際の2月になって仲が良かった製菓の先生の勧めでパティシエとして全日空ホテルで働くことが決まりました。
魚介がだめで料理人を諦め、なかば消去法で選んだパティシエ。働きだして改めて思ったのは、自分は甘いものがさほど好きではないという事実でした。もちろん仕事のために休日は都内のお菓子屋を食べ歩きして回るなどはしましたが、どうしてもお菓子づくりにのめり込めない。そんなある日、製菓業界の飲み会で知り合った人が働くパン屋へ遊びにいったときに、パンづくりを手伝わせてもらいました。つくってみると、パンの方がお菓子よりずっと面白い。
それから半年ばかり、平日はホテルでパティシエ、休日はパン屋の生活を続け、21才のときに二年働いたホテルを辞めてパン屋の正式なスタッフとなりました。
それから三年間パンをつくり続け、もっといろんなパンづくりの現場を見てみたくなってお店を辞め、知り合いのパン屋を研修してまわりました。最後の研修場所だったのが、埼玉の秩父にある自家培養天然酵母パンのはしりである「ラパンノワールくろうさぎ」。それまで働いていたパン屋はイースト菌を使っており、天然酵母を自分の手で扱うのは初めてでしたが、すぐにその世界に惹き込まれました。
イースト菌や添加物を使わないでもここまで美味しいパンを焼けるのか、という新鮮な驚き。そして、天然酵母という生身の生き物を扱う面白さ。天然酵母はイースト菌とは異なり、自分の思い通りにはことを進められません。酵母に対峙し、様々な工夫を施しながらのパンづくりに夢中になりました。
ラパンノワールには研修後も残って半年間働き、本格的にパンの修行をするため2009年の秋にドイツへと渡りました。

すべての景色が一変した東日本大震災
ドイツに渡ったものの、準備してきたのは実はフランス留学でした。そのためにフランス語の勉強もしていたのですが、ビザの関係でドイツが留学しやすいことが分かり、修業先も決めずにとりあえずの勢いまかせの渡独でした。
当然ドイツ語はまったく話せず、それでも修業先を見つけなければならないのでとりあえずパン屋をまわるものの、自分の想いが相手に伝わっているかもよく分からないまま断られる。何軒か断られた後に出会ったのが、ハンブルク郊外のイムドルフにある「Hof Wörme」。Hof Wörmeは、大自然の中で農家や酪農家と生活をともにし、誰でも簡単にパンが焼けるようにミックス粉が主流になっていたドイツにあって、伝統的な製法にこだわり、世界で最も厳しいオーガニック認証の一つと言われるデメター認証を受けるパン屋でした。一目でここだと思い、修行させてほしいとジェスチャーを使って想いを伝え、目の前でパンづくりを披露して修行の許可を取り付けました。そして一年間、語学を学びながら住み込みでみっちり働きました。
Hof Wörmeでの一年間で、ドイツの伝統的なパンづくりを間近で学べたことは大きかったのですが、それと同じくらい共同生活を通してドイツ人の日常を垣間みれたことも大きな糧となりました。冷蔵庫にはどっさりチーズやハム、バターがあり、それらをふんだんに使ってライ麦パンやカンパーニュなどのハード系を食べる。日本だとかしこまって食べるイメージのあるこれらのパンですが、ドイツではあくまで生活の一部として存在していました。パンはもっと身近なものであってもいいのでは。食文化の違いを目の当たりにして、パンのあり方を考え直す機会となりました。
帰国後は再びラパンノワールで働き始め、お店を手伝っていたオーナー夫妻の娘である維摩(ゆいま)と婚約。家庭も持ち、そろそろ独立して埼玉の実家近くでお店を開こうと現実的に考えていたとき、東日本大震災が起こりました。当時維摩には、11才と6才になる連れ子がおり、お腹にも新しい命が宿っていました。私たちは、放射能の子どもへの影響を恐れて、地震発生から3日後の3月14日に、維摩の姉である宇摩(うま)と弟の阿満(あまん)家族と共に福岡の知人の家へと避難しました。
そこで原発事故の様子をしばらく見守っていましたが、いっこうに収束する気配がなかったので、私たちは友人の家を出て、近くのアパートを借りて本格的な移住生活を始めました。妊娠中の維摩は働けないため、私ひとり求人広告で見つけた製菓工場で働き始めました。一家4人を養っていくために、仕事を選ぶ余裕はありませんでした。
閉ざされた工場の中で、流れ作業のように毎日毎日お菓子を作り続ける日々。ようやくパンという自分が生きていく居場所を見つけ、これから自分のお店を持って自分なりのパンを焼いていこうと思っていた矢先の原発事故。描いていた未来は一瞬のうちに霧消し、やりたくない仕事をただ生活のためにこなしていく。仕事のストレスと将来への不安がからだを否応なく蝕み、こころもどんどん疲弊していきました。
たとえこの苦しさを乗り越えてお店を持てたとしても、地震が来たらまたどこか遠くへ逃げなくてはいけなくなるのではないか。そう考えるとまた不安に襲われ、いっそパンづくりを諦め、別の職業に就こうかと真剣に考えた時期もありました。
そうして一年が過ぎ、もう一度パンづくりしたいと再び強く思うようになっていた頃、先に移住していた宇摩のつてを頼りに岡山へ引っ越すことが現実的となってきました。新しい地で一からやり直せるのなら、今度こそ自分のお店を持ちたい。知り合いもまったくいない土地で新しくお店を始めることに多くの人は反対しました。でも「パンをつくりたい」という自分の気持ちを抑えることがもうできなくなっていました。

「オぷスト」のオープン、そしていま
新しいお店のイメージを考えたときに、国産やオーガニックの食材などをたくさん使ったお店にしたいとまず思いました。私は幼い頃からアトピーやアレルギーがひどく虚弱体質だったこともあり、両親も食や生活に気を使ってくれ、自分でも気をつけなければならない機会が多くありました。私自身が敏感な体質だったからこそ、ナチュラルな食材を使ったパンづくりにこだわりたかったのです。
そうした理想を持って開店準備にとりかかり、本当にたくさんの人の応援と支えによって岡山県の瀬戸内市で「オぷスト」をオープンさせることができました。しかし、最初の頃はお客さんの層も分からず、本当に自分のパンが受け入れられるのだろうか気がかりでした。こだわった材料を使うことで、パンはどうしても一般的な値段より高くなってしまう。それに自分がつくりたいパンは、普通の人にはなじみのうすいバケットやカンパーニュなどのハード系がメイン。果たしてそれらを好んで食べてもらえるのだろうか。当時、まだ20代だったということもあり、必要以上に気負って高級感を出そうとしていた自分がいました。
けれどオープンから三年が経ち、店頭でのお客さとのふれ合いや、自然と増えていった常連さんたちの存在で、次第に肩の力が抜けていきました。頑張って見栄を張るよりも、お互いがかしこまらないようなお店にしたい。ドイツで目にした「生活の一部」としてのパンのあり方が蘇り、「オぷスト」の立ち位置が少しずつ定まっていきました。

いまは好きなパンを自分のやり方で自由につくれる、それがなによりも楽しい。そしてパンを食べたお客さんから「おいしい」と言ってもらえることは何にも代えがたい幸福感をもたらしてくれます。パンだけではなく、自家製のベーコンやチーズ、そして「オぷスト」の名前の由来にもなっている果樹園など、もっともっと時間が欲しくなるくらい、やりたいことが次々に浮かんできます。
こうして充実した日々を送れているのは、家族の存在があるからこそだといつも感じます。福岡での一年間、どん底ともいえる状態だった自分の支えにずっとなってくれ、オぷストを始めてからは子どもを背負いながらお店を手伝ってくれている維摩。そして仕事を終えくたくたになって帰宅した自分を、ほっと落ち着いた気持ちにさせてくれる子どもたちの存在。
岡山に移ってきたとき中学一年生だった上の娘は、今年で16才。この三年間で急に大人びた彼女の姿を見てふと寂しくなるときがあります。子どもの成長はとても早い。今をきちんと見ていないとあっという間に親のもとから巣立っていってしまう。それは早く自立したかった自分の姿と重なるものがあります。
パン屋は朝早くから仕度しなければならないので、朝を一緒に過ごすことはできません。だからこそ夜ご飯は一緒に食べたいし、休日も、せめて日曜日は一緒にいたい。お店を6時に閉めてしまうことも、日曜日に営業しないことも、維摩の自宅出産を介添えするためにお店を2週間閉めることも、お客さんにとっては迷惑なことなのかもしれない。でも自分の生き方として、パンをつくることと同じくらい家族と一緒にいる時間は大切なものなのです。

そしてもう一つ、忘れてはならないのは、自分がこうしてやりたいことをやれているのは「戦争」がいまの日本にないからであるということ。そして、その一方で私たちが岡山に移住するきっかけとなった原発事故は、いまだに収束の兆しが見えずにたくさんの人の暮らしを脅かし続けているということ。
戦争と原発はいらない。それはどんなに人生の方向性や価値観が変わろうと、一貫して抱き続けてきた私の切なる想いであり、願いでもあります。

RYUJI KOIWAI, July 8, 2015

※東日本大震災の直後、埼玉からともに福岡に避難した維摩の姉の蝦名宇摩は津軽三味線奏者で、現在岡山県を中心に活動しています(公式サイト)。また大久保阿満(維摩の弟)家族は、福岡に避難した後広島県福山市に移住し、自家培養天然酵母パン屋「Panaderia Trigo」をオープンしています。