海と山に囲まれた奄美大島で育った私は、生まれた時から大家族。
基本的には自給自足だったので、大人はもちろんだけど、子どももよく働いた。
ご飯を作るのはかまど、お風呂は五右衛門風呂、畑はもちろん、鶏もヤギも飼っていた。
玄米ご飯に味噌汁と少しのおかずが私たちの毎日のご飯。
白米はごちそう。卵は年に一回程、鶏を飼っているのに卵は出荷用なので、食べさせてもらえなかった。お肉なんて年に一回も食べてないかもしれない。
その代わり魚は漁に行ったり、もらったりで結構食べることがあった。
白砂糖は猛毒という大人の考えに、子供はお菓子を買ってもらうことがなかった。
お年玉をもらった正月だけ、唯一自然食品店へ連れて行ってもらい、自分のお年玉で好きなものを買わせてくれた。
何が食べたいかより、何が腹持ちがいいか、何が口の中で長いこと味わっていられるか、そのほうが大事だった。
新聞紙をガム代わりに口に入れたり、保育園の友達のイチゴ味歯磨き粉を盗んで食べたり(こっちのほうがよっぽど身体に悪いぞ)
お豆腐屋さんが村へ販売にくると、お豆腐ではなく、一斗缶のおからを全部買いしめていた、ただみたいなおからは我が家で最高のおかずとなった。
時々奥に見える豆腐が私の中でキラキラ光って見えた。
おやつは山へしいのみ拾いに行って食べるか(イノシシと餌の取り合いだ)
ピンク色の花が咲く植物をとって食べた、これはすっぱくて美味しい。
時々小麦粉と黒糖と水だけで作った岩のようなカチカチのドーナツも子供ら自ら作って食べた。戦後のような子供時代は、とにかく食べ物のことで頭がいっぱいだった。
大人になったらお菓子屋さんになってお菓子の食べ放題してやるー!とか、家を出て白いご飯食べまくってやるー!とか、そんなことばかりが頭の中をいっぱいにした。
面白いもので、いくらでも食べれると思ったら急に欲がなくなり、お菓子も、白いご飯もさほど貴重ではなくなってしまった。
そう思ったら、あの時の白米を食べた時の幸せな気持ちや、お菓子を買う時のわくわくドキドキは今では手に入れることのできない幸せな体験。
忘れることのない、あの時の飢えが教えてくれた貴重な幸福感。
大人の考えで育ってきた食への考え方は、一度外に出た時に解放された気分で色々食べたり、飲んだりしたけど、結局あの時の基礎的なものは自分の中に残っていて、あそこまでとは言えないけど、程々にあの時代を手本とし今を生きる。
ちなみに、大人はそれぞれ結構裕福に育ってきた人ばかり、好んで自ら自給自足の道を選んだ人達が集まった共同生活だった。
子どもたちは、そこで生まれ、そこで育ち、それが当たり前の世界となっていた。